騎兵の書・JRA編
ミスタートウジン。少し競馬をかじったことのある人なら、この名前を聞いたことがあるだろう。言わずと知れた「現役最高齢馬」である。今年で14歳だ。競走馬の年齢の数え方は諸説あるが、人間の4倍というのが一般的であるので、ミスタートウジンはもう還暦に近いということになる。イメージ的には、毎年マラソン大会に孫と一緒に参加する近所の元気な爺さんというところだろうか。実際にミスタートウジンは、同期のサクラホクトオーの子供であるサクラスピードオーと一緒のレースで走っているのである。競走馬のピークは早熟な馬だと4歳、晩成な馬でも7歳くらいで、それ以降はなかなか第一線で活躍するのは難しい。障害馬なら高齢になってから活躍することが多いが、それでも11歳のケイティタイガーが最高齢だと記憶している。平地だと、先日の川崎記念で9歳のキョウトシチーが2着と健闘したが、他にはあまり活躍している馬は思い当たらない。そこで、今回はミスタートウジンの成績を振り返りつつ、この年になっても走る理由を考察してみたい。
まずトウジンの成績だが、実に91戦。これはJRAでの記録なので地方交流レースを含めるともうちょっと走っているはずだ。この後に書くデータもJRAでの記録を元に書いていくのでご了承願いたい。勝ち数は11勝だが、すべてダート戦である。最後に勝ったのは1993年の平安ステークス(以下S)。今からもう6年も前のことだ。しかしながら、この時の平安Sは普通のオープン戦だったので、トウジンは重賞ウイナーではない。他にもガーネットSや武蔵野Sなど、今では重賞に格上げされているレースを勝っている。その他に驚かされるのは、トウジンは同じレースに多回数出走していることである。銀嶺Sに6回、ウインターSに5回、フェブラリーSに5回、マーチSに4回。この中でも銀嶺Sは1勝、2着1回、3着2回とかなり好走している。普通は同じレースに3回出走することもあまりあることではないのだが、トウジンの場合、3回出たレースは書くのが面倒なくらいいっぱいある。もちろんこれだけレースに出ていれば、騎乗したジョッキーも多彩だ。村本の37回を筆頭に、西浦、安田隆、柴田善、最近では中館や幸などが騎乗しており、ロバーツとペリエも2回ずつ乗っ
ている。G1にも3度出走しており、ドクタースパートの勝った皐月賞、プレクラスニーが制した(メジロマックイーンが降着になったレース)天皇賞(秋)、そして先日のフェブラリーSである。
さて、ここまでトウジンの成績をならべてきたが、さきほども書いたようにもう6年も勝ち星から遠ざかっている。年齢からすると当然といえば当然なのだが、最近の成績も芳しくない。では、まだ走っているのはなぜなのだろうか。競走馬としての使命を終えた後は様々な道がある。牝馬なら繁殖として牧場に戻れる確率もそこそこある。良血や、その牧場で代々育てている血統の馬ならまず間違い無いだろう。牡馬の場合はG1を獲っていれば種牡馬として余生を送ることが出来る。もちろん種牡馬として厳しい戦いが待っているのだが、とりあえず当面は安心だろう。他では、頭が良くて気性がおとなしければ誘導馬という道があり、研究馬(馬の生態の研究やデータの取得をするらしいが詳しくはわからない)、使役馬などもある。中には神馬として神社に奉納される馬もいる(祭りなどで活躍するらしいがこれも詳しくはわからない)。しかし、競馬雑誌などを見ればわかるとおり、引退した馬の大半は「乗馬」となる。ただ「乗馬」として第2の人生を歩むはずの馬がすべて乗馬になるかというとそうではない。単純に考えてみても、馬文化が根づいてなく、まだまだ乗馬が普及していない日本にお
いて、次々と引退していく競走馬が全部乗馬になるのは無理なことである。競馬関係者の間では隠語があって、乗馬になるために厩舎を去る時、「この馬の行き先は福島だ」といわれれば、その馬は処分されるという噂を聞いたことがある。処分場が福島にあるのか、それとも歴史の変遷の中でその言葉がキーワードになっていったのかは定かではない。最近、競走馬が余生を過ごすための専用の牧場もできてきたが、まだ数えるほどしかなく、そこで生活できる頭数も限られているし、当然ながら牧場への預託料は馬主が払うことになる。そうなると馬主がお金を出してまで生活させるということは少なく、ファンが引き取って預託料を払っているというケースもあるという。ミスタートウジンも成績からみると引退後は乗馬になるのが妥当だろう。馬主や調教師がこの年齢まで走らせたのも、乗馬という名のもとに消息がわからなくなる事に不安を覚えたからではないだろうか。幸い、トウジンは最高齢馬として有名になり、ファンにも愛されているので、牧場へ帰ってゆっくりと余生を送ることが出来そうだが、このような事はあまりあるものではない。競走馬が経済動物である限り、引退後まで面倒は見れ
ないというのは致し方ないことだろう。種牡馬でも、シェリフズスターの様に消息不明になったものもいる。産駒のセイウンスカイが活躍しなければ、それすら話題にならなかっただろう。種牡馬を引退したグリーングラスも行き場所が無くなり、たらい回しにされたという話も聞いたことがある。このようなことを防ぐために、せめてG1を獲った馬くらいは、JRAが援助金を出すなどして、その馬が引退後に安心して過ごせるようになにか対策を講じて欲しいと思う。
現在JRAには200余名もの騎手がいる。競馬とはその名の通り馬と馬との競走であるが、純粋に馬の能力だけではなく騎手の技量も重要な要素である。馬の能力を生かすも殺すも騎手の腕次第といったところだ。今回は騎手についていろいろと書いていきたい。
まず、競馬をほとんど知らない人でもその名を知っている可能性があるとすれば、武豊であろうか。何年連続かは忘れたが、ここ数年ずっと東西総合リーディングを獲っている言わずと知れたトップジョッキーである。父親は武邦彦調教師で、この人も現役時代は「名人」と呼ばれた名ジョッキーだった。そして、弟に武幸四郎。彼も初勝利が重賞レースと華のあるところを見せ、その後も1年を通して活躍し、やはり血は争えないものだと思った。同じく関西で活躍している福永祐一騎手も同様に、「天才」といわれた福永洋一元騎手が父親である。とはいっても名騎手の子供が必ず活躍するわけでもないようで、むしろ親子揃って大活躍という例のほうが少ないようだ。関西の代表が武豊なら、関東は岡部幸雄であろう。もう50歳に近いベテランジョッキーで、現在JRAの通算勝利の記録保持者である。最近は乗り数を意識的に少なくしているようで、ここ数年はリーディングから遠ざかっているが、それでも昨年は100勝をあげておりまだまだ健在といったところであろう。武豊が独占状態の関西と比べ、関東は蝦名、横山典、柴田善といったところがリーディングを争っており、そちらのほうも
興味深い。
さて、JRAには同じ名字の騎手が結構多い。血縁関係がある人、まったく関係ない人など様々だ。そのあたりを検証してみたい。一番多いのは「横山」のはずだ。まず有名なほうでは、横山賀一と横山典弘。この2人は兄弟であり前者が兄である。横山賀のほうはニュージーランドで騎手免許をとったという変わり種である。一方、横山典は「ノリ」の愛称で親しまれており、先ほど書いたように毎年関東リーディング争いに顔を出している。他に横山義、横山雄(両者とも正しい名前を知らないので略式表記、以下も漢字の間違いなどもあろうが目を瞑ってもらいたい)がいるが横山兄弟とは何の関係もない。ほかに兄弟といえば「菊沢」兄弟もいる。兄が菊沢隆徳で弟が菊沢隆仁。新聞では菊沢徳、菊沢仁と区別されている。そして菊沢徳の奥さんが横山兄弟の妹なのだ。横山兄弟の父親も元騎手でいまは調教助手をやっているから、まさに競馬ファミリーである。また「小林」も3人いる。3人とも全くの他人なのだが、それぞれにあまり特徴がないので区別がしにくく、私にはニホンピロの馬に乗ってるのが小林徹弥だというくらいの認識しかない。ちなみにあと2人は小林久晃と小林淳一である。
ところでJRAでは平地の他に障害のレースも行っているが、平地とは別に障害を舞台に活躍する騎手もいる。まず名前を挙げるとすれば田中剛。障害界の武豊、とまでは言わないが、多少競馬を知っている人なら障害のジョッキーといえばこの人の名前を連想するのではないだろうか。平地でもそこそこの数を乗っており、重賞も勝っている(ゴールデンアイの東京新聞杯。ダート変更でグレードはとれてしまったが)。同じく障害で活躍する熊沢騎手は平地でも大活躍しているが、障害にこだわりがあるようだ。「夢は中山大障害を勝つこと」と言っているくらいだからかなり障害に力を入れている。平地である程度活躍していれば、障害は乗らないのが一般的だし、障害免許を返上(更新しない)する人も結構いるくらいだから、熊沢は珍しいタイプといえよう。他に、私がいま注目しているのが西谷騎手だ。まだ3年目か4年目くらいだと思うが、斤量の関係もあってほぼ障害に専念しているらしい。関西の騎手なのであまり馴染みはないと思うが、去年は障害リーディングの上位に顔を覗かせた。障害レースの改革でオープンレースが増えたので、関西馬と共に関東に遠征してくることも増えるだろ
うから、今年は更に注目して見てみたい。
馬はよく知らないがこのジョッキーが乗ってるから買おうとか、武豊の馬は馬の力以上に人気になるから買わないなど、ジョッキーへの思い入れによって馬券の買い方が変化することもある。とにかく騎手の特徴を知ることによって、競馬の楽しみ方が更に広がることは間違いない。今まであまり騎手には関心を示してなかった人も、これを機に騎手についていろいろ研究してみてはどうだろうか。